防災・減災への指針 一人一話

2013年12月05日
震災・復興を教育する事の必要性
仙台育英学園高校 副校長
村岡 利信さん
仙台育英学園高校 副校長
鈴木 信男さん
仙台育英学園 秀光中等教育学校 副校長
佐藤 一雄さん

ブロック塀の倒壊被害が多かった宮城県沖地震

(聞き手)
今回の震災と宮城県沖地震とを比べて、どのように感じましたか。

(村岡様)
 宮城県沖地震は水害よりも建物の倒壊やブロック塀の倒壊などの被害が多かったと思います。
そのため、今回の地震でも、塀が危ないと感じていました。
ただ、今回、津波での被害に比べると、家の倒壊が人命に被害を与えた部分は小さかったように思います。

(鈴木様)
 私は、この学校で数年前から防火管理者をしており、毎年2回避難訓練を実施していますので、生徒には防災意識を持ってもらうよう働きかける立場にいます。
ですが、自分が日頃の備えについて何をやっているのかとなると、特別なことはしていなかったように感じています。
自宅では非常持ち出し袋を作り、水などの蓄えをしていましたが、それ以外は特に細かい事を計画していませんでした。
今回の震災では非常に困った部分があったので、反省させられた部分も多々あります。
私は三十数年前までは多賀城に住んでいて、宮城県沖地震の時も多賀城にいました。家そのものは新築だったのであまり被害に遭いませんでした。
しかし、かなりの揺れで家具が倒れてしまい、家具の被害は相当受けました。
ガラス戸棚が倒れてきて、まだ赤ん坊だった長男が寝ていた布団の上に倒れ、ガラスが粉々になったという事を後から聞きました。長男はちょうど起きていたので助かったのですが、それを聞いて冷や汗をかかされました。
それ以降、本箱や高い家具は、後ろを必ず固定するようにしています。
もし家具が子どもの上などに倒れてきたら、大変な直接被害が出た可能性があるので、家具の固定はきちんとしておかなければいけないと思っています。ピアノが1メートルも前に出たり、箪笥がかなりずれたりという話も聞きますので、家具の事は気を付けなければいけません。

ライフラインの備え

(聞き手)
 震災時、大変だったことは何ですか。

(鈴木様)
 東日本大震災時、最も困ったのはライフラインでした。
当時は電気も水道も止まりましたが、比較的早く復旧しました。ガスは最後まで止まったままでした。
今の自宅では炊事と給湯をガスで行っていますので、ガスの復旧が遅れた事が非常に困りました。
特に、小さい子どもがいたので、それ以降は電気を使ったものを用意して、電気コンロなどを使って生活出来るようにしています。
ストーブも反射式の石油ストーブを一つ用意しました。
暖を取るだけでなく、煮炊きにも使えますし、ファンヒーターやエアコンの代替としても確保してあります。

予想しなかった津波と被害

(聞き手)
 震災に備えるには何が大切だとお考えですか。

(佐藤様)
 宮城県沖地震は90%以上の確率で来ると常に言われていましたので、まず来ると考えて備えておく事が大事だと思っていました。
そのため、それに対応する生徒の避難の仕方を徹底させたり、学内の環境としては、避難経路に物を置かないようにしたり、火災報知器の周囲に物を置かないようにする等の対処をしてきました。
 個人的には、宮城県沖地震が全ての原点だと思っています。
自宅には、高齢の家族がいるので、家の耐震工事をしていました。
また、もし地震が起きた時には、落ち着いて、突発的な行動をしないようにしようと何度も話しておいたので、冷静に動けたと思っています。

(聞き手)
 発災直後の出来事で、印象に残っている事はありますか。

(村岡様)
 地震の初動対応としては、揺れが収まるのを待ってから中庭に避難するという事がマニュアルで決まっていました。
今回はかなり強い揺れが長く続いたので、とにかく外に避難するように先生方にお願いして、避難指示を出してその確認をしました。揺れは大きさと時間が尋常ではなく、普通なら長くても10秒程度でしたが、今回は恐らく2分以上揺れていたでしょう。波状的に何度も揺れて、構内の窓ガラスが音を立てて揺れていました。

(聞き手)
揺れが起こった時点で、津波が来ると予測していましたか。

(村岡様)
 予測できませんでした。ここは海まで2キロほどの距離しかなく、しかも平地ですので、津波が来る可能性があると考えるのが普通でしょう。
しかし、宮城県沖地震では1メートルを超えた津波が来なかったので、今回、津波が来たとして40~50センチ程度だと考えていました。

(聞き手)
周囲の状況や校舎の被害、あるいはその当時の生徒の状況というのはどのようなものでしたか。

(村岡様)
 目視した状況では、ガラスが割れて落ちてきたという事はありませんでした。
また、柱にひびが入って倒壊の恐れがあるということもなかったです。
後で調べたところ、校舎の周りにあるパイプラインがかなり被害を受けていましたが、揺れが収まった直後は、ここまで大事になるとは予測出来ませんでした。

指定避難所外の施設での避難者の受け入れ問題

(聞き手)
地域の方がこちらの学校に避難されたということはありましたか。

(村岡様)
 そのような事はありませんでした。当日の夜中に、少人数のグループから「ここは避難場所ではないのですか」と尋ねられた事はありましたが、押し寄せてくるという事はありませんでした。

(聞き手)
 震災直後の学校の周辺と、学校内の動きを教えてください。

(村岡様)
側溝から水が噴き出していて、それが深い所では20センチ近くまで溜まっていて、軽自動車では通り抜けるのも一苦労する箇所はありましたが、敷地内で大きな出来事はありませんでした。
学校前の道路を一つ隔てた田んぼまで、黒い海水が押し寄せてきていた事に、少し経ってから気が付いたような状況でした。
 思い出せる限りの内容ですが、私は課外講習で、数名の生徒を相手に3階のゼミ室で授業をしていました。その時は、2回に分けて揺れが起こりました。初回はあまり大きな揺れではありませんでしたから、生徒たちも軽く騒いだくらいで、机の下に隠れるよう指示を出しました。
そして、揺れが収まるのを待ちましたが、2回目は激しい揺れで、生徒たちも少々気が動転していました。
何しろ、机の下にいて、机の脚を押さえていても転んでしまいそうなほどの大きな揺れでした。外にいた方たちも、立っていられずにしゃがんでいました。
それから、建物と地面の間がかなり大きくずれて動いていました。建物と地面の間にかなり大きな溝が出来て、電信柱も相当揺れていました。
信号機が止まってしまったので交差点には車が何台も停まっていましたし、トラックなども倒れるのではないかと思うくらいに傾いていたのが印象的でした。
 しばらく教室で待機していましたが、そのうちに揺れが収まったので、訓練通りに、生徒は中庭に集まるようにと、校内放送で指示が出ました。指示通りに中庭に集合させましたが、寒くて生徒たちは震えていました。
余震が心配だったので、とにかく建物の外に出た方が良いとは考えていましたが、この建物自体は新しい上に、かなり土台に杭打ちなどをしてあるそうで、ここが崩れるような事はないだろうと思っていました。
 するとラジオから「仙台湾に10メートル以上の津波が来るので、建物の3階か4階以上に逃げてください」という放送が入りました。高い所に生徒を避難させる事になり、3階に逃げさせました。
しかし、正確な人数は把握出来ませんでしたが、500人以上の生徒がいたので、3階には入りきりませんでした。
そこで、別棟の3階にも生徒を避難させてから、様子をうかがう事にしました。しばらくすると電気が止まってしまい、夕方になると水がどんどん上がってきました。津波の水ではないように見えました。
ひたひたと下から水が上がってくる様子を見ていました。
学校の周囲は水浸しになってしまいました。
中には、無理に帰ろうとしている生徒もいましたが、それは押しとどめました。とにかく生徒の安全が第一でした。
学校はスチーム暖房なので、暖房は全て止まっていました。

(聞き手)
 震災当日にいた生徒さんの数は500人程度だったのですか。

(村岡様)
 3年生は3月1日で卒業していたので、いたのは1・2年生だけでした。
また、宮城野校舎からこちらに来ていた特進科の生徒もいました。
恐らく最終的には600人弱もの生徒がいた上に、教職員も数十名ほどいて、一晩過ごすには相当過酷な状態でした。

学校の備蓄品と活躍した井戸

(聞き手)
当日は食糧などの備蓄は、どのようになっていたのでしょうか。

(村岡様)
仙台育英学園では、緊急時に備えて周到に準備していて、かなりの備蓄をしておりました。
ところが、電車もバスも使えず、石巻方面の生徒の自宅は安否確認も出来なくなり、ひとまず学校に泊めようという事になりました。
専用の備蓄倉庫があるので、そこに他の教職員と車で向かったのですが、備蓄倉庫の鍵をどの用務員さんが持っているかわからなくなってしまいました。
結局、最初の段階では備蓄していた毛布も食糧も使う事が出来ず、別の備蓄倉庫から毛布と食糧を持ってきました。
それでも、毛布を女子生徒に1人1枚、男子生徒には2人に1枚を配る事が出来て、教室や会議室で身を寄せ合って、寒い状況で一晩を過ごしました。職員は食べ物も毛布も一切なしでしたが、興奮していたせいか空腹はあまり感じませんでした。

(鈴木様)
 飲み物は、自動販売機があったので、それに入っていた飲み物を全て取り出し、水も若干の備蓄があったので、生徒に1本ずつくらい配る事が出来たと思います。

(村岡様)
 ここでもう一つ良かったことは、理事長がこういう状況を予想して、井戸を掘っていて、その水をトイレ用に常時使えるようになっていた事です。
普段は水道水と兼用で使っているのだと思いますが、校舎1階の1カ所だけでしたがトイレが使えたので、急場を凌ぐ事が出来ました。
今回は、女子生徒もいたので、トイレが使えなかったら、さぞ大変な事になっていたと思います。

保護者への引き渡し方法が今後の課題

(聞き手)
 生徒安否確認心のケアなど、さまざまな問題もあったと思いますが、その中でうまくいった点、いかなかった点は何でしょうか。

(村岡様)
 建物が壊れずに済んだので、それほど混乱に陥らずに過ごせた点が良かった点の一つであると思います。ロッカーの倒壊などがなく、スムーズな移動・避難が出来た事による落ち着きもありました。今言ったようにトイレが使えた事と、不十分ながら自家発電が出来ていた事が良かった点です。
 逆に難しいと思った事は、生徒を親に安全に引き渡す方法でした。
親御さんが迎えに来てくれればいいのですが、そうでない生徒の安全をどのように確保しておくかは、これからの大きな課題になると思っています。
中には生徒が「俺は大丈夫だから帰る」と帰ってしまい、保護者と行き違ってしまったという事が、特に宮城野校舎で起こりました。
宮城野校舎では、校舎に生徒が留まれなかったという状況だったからなのですが、これも大きな留意事項になるでしょう。

(聞き手)
鈴木先生は、どのように感じられましたか。

(鈴木様)
 私はまず、生徒の所在把握が困難だったと感じました。
学校内が暗く、生徒か先生かもわからない中、手さぐりで誰がどこに何人いるのか確認し、教室を配分するだけでも大変な事でした。
男女の生徒が何人いるのか確認するだけでも相当な時間が掛かってしまい、先生方に走り回ってもらって、どうにかこうにか一覧表を作って泊まる教室の割り当てをしました。
時間は掛かりましたが、何とかうまくできました。
 翌日になると、今度は携帯電話が繋がらず、生徒の親御さんと連絡が取れませんでした。仙台育英学園では幸いな事にバスを持っているので、それに分乗させて帰す事になりました。
その時に、誰がどのバスに乗って、どこへ行ったかを仕分けなければいけませんから、そのための名簿作りをしました。
教室ごとに名簿を作ってもらい、バスごとに配分して、運転手に名簿を持たせて、確実に帰ったのか確認させました。
これが後々、非常に役に立ちました。
まず、家が流されてしまったなどでご家族がどこに行ったかわからない生徒には戻って来てもらって、寮で過ごしてもらいました。
最終的には50~60人ほどが戻って来ました。
また、これは数日が経過してからの話になるのですが、親御さんが学校にいらっしゃったので、何があったのか聞いたところ、「うちの子どもが帰って来ない」とのことでした。
確認したところ、バスで既に帰っていたとわかったので、それをお伝えしたら、親御さんは大変喜んでおられました。「生きていたとわかっただけでも嬉しい」と言っておられました。
後から聞いた話では、数日間ほど互いに行き違っていたそうですが、なんとか会えたとの事です。
名簿を作るのは大変でしたが、非常によく機能してくれたと思っています。

(聞き手)
やはり高校生という事で、広範囲から通っていらっしゃるのでしょうね。

(鈴木様)
はい、そうです。私立の場合は県外からも通学しているほどなので、相当な広範囲に散らばっていて、送り届けるのも大変でした。

(聞き手)
 当時は道路状況も大変な状態だったのではありませんか。

(村岡様)
 安全走行の確認が取れないと出発させられないのです。
事実、発災翌日の3月12日の9時に第一陣が出発するという計画を立てたのですが、道路の安全が確保出来ているか確認が取れず、予定通りに出発させる事が出来ませんでした。
特に石巻方面は、津波で非常に大きな被害が報道されていたので、確認も大変でした。

生徒の心のケアの問題

(聞き手)
 秀光中等教育学校でも、同じような対応になったのでしょうか。

(佐藤様)
 中等教育学校なので中学生・高校生の両方がいますが、安否確認については全て一緒になって行動したので、今のお話と同じです。それ以外で、中学生も預かっているという事で心配したのは心のケアの問題です。
心のケアとして、中学生用と高校生用の対応の2種類を作りました。高校生は自分の意見を言えますが、中学生はなかなか自分から訴える事が出来ない子が多く、職員にその注意点は徹底させました。
これが良かったのではないでしょうか。
また、避難訓練をした時に、フラッシュバックしてしまうような子を、無理に訓練に参加させずに保健室に行かせたというような事もありました。
そういったような対応をしてきた事が良かったと思います。
他にも、安否確認の次には健康管理に重点を置きました。
生徒が登校できる時期は後になったので、先に職員の健康診断を実施しました。
職員が健康でなければ、生徒たちに対応する事は出来ません。
生徒の健康診断はずっと後に組まれていましたが、それも4月のうちに、出来るだけ早くやってもらうようにしました。
心と体の健康についての配慮をした事が、私の中では印象に残っています。

(聞き手)
 学校がお休みの間、ボランティア活動をされた生徒さんはいらっしゃいましたか。

(村岡様)
 組織的なものと個人的なボランティアがあると思いますが、学校として組織的に活動した学年はありません。
また、学校近くの山王地区公民館には、いくつかの部でお手伝いに訪問しました。
ボランティア活動は部活動単位でやったところが多いのです。
野球部や柔道部、剣道部などに入っている生徒達は、自宅近くの公民館に行きました。学校になかなか集まれない、練習も出来ないという状況だったので、地域でそういったボランティア活動をしたという生徒も随分いたようです。

自発的なボランティア活動

(聞き手)
鈴木先生は、生徒のそういった当時の頑張りなどで、何か印象に残っている事はありますか。

(鈴木様)
 当時は私たちもどうしていいのかわからずに慌てていましたのであまり気付きませんでした。
後から生徒と進路面談をした頃に、多くの生徒が地域でボランティア活動に参加したという事を話してくれました。学校としては、部活動単位での炊き出しなどを何度かやりましたが、多くの生徒は「泥かきなどの仕事は当然やらないといけない」というような気持ちで頑張ったのだと話してくれました。
かなり多くの生徒が自発的にボランティア活動をしてくれたと思っています。

(聞き手)
佐藤先生はいかがですか。

(佐藤様)
 ここは進学する生徒が圧倒的に多いものですから、校長先生のご配慮で4月2日から10日間ほど、疎開学習というものをしました。
生徒学校のシャトルバスに乗せて、蔵王温泉に上の学年から順々に行かせて、暫定授業を行いました。
安全を確認しながら、中学生にも行いました。通学上の問題もあったでしょうから、そういうふうに段階を追って授業を再開していきました。
 ボランティア関係ですが、うちの学校では「Language, Music & Science」という教育理念のもとで音楽を盛んに行っています。
後から聞いた話ですが、生徒たちが自発的に避難所に行って、アカペラのチャリティコンサートを行ってきたそうなのです。
他にも色々なボランティアをしていましたが、もっとも大きかったのは、多賀城文化センターに行ってのコンサートだったようです。
よくそんな事を思いついて実行したものだと感心しました。どうやら私たち教員も知らないうちに相談して、多賀城文化センターに行ってコンサートをしたと聞いています。

私立学校と公的機関の連携という課題

(聞き手)
 当時を振り返り、見えてきた課題はありますか。

(村岡様)
 震災の規模によると思いますが、後になって振り返ってみると、もう少し公的機関との連携を普段から構築し、準備しておく必要があったと思っています。
例えば、生徒の生命の安全に関わる事柄や、連絡の情報の迅速性などの面です。
ですが、東日本大震災では、実は、公的機関もてんてこ舞いになっていました。
「自分の命は自分で守る」というような話も出ていますが、もし連携が取れていたら、保護者の子どもに対する心配や生徒・職員の安全確保の難易度なども軽減出来たのではないかと感じました。

(聞き手)
鈴木先生はどうでしょうか。

(鈴木様)
 多賀城は工場地帯ですので、地震や火災についての防災準備はされていたと思いますが、津波に関しては私たちも含めて、あまり考えてこなかったのではないでしょうか。
今回、多賀城市内で亡くなられた方の多くは津波が原因だと思います。
近くには、港があって川があって、川には限られた橋しか架かっていません。
その上、ここは工場地帯で事業所も多く、地元の方以外もたくさん入っています。
そうすると、津波が来てもどこに逃げていいかわからなくなり、どこに行っていいかわからないまま津波にのまれてしまった方が多いのではないでしょうか。
ですから、必要な事は、どこに逃げるべきか日頃から情報を得ておく事が必要ですし、それをきちんと把握しておき、津波が来たらここに逃げるという心構えを持つ事が大切でしょう。
三陸沿岸の人たちはそういう考えを持ち合わせていたのでしょうが、恐らく、多賀城市の方でそのような人は少なかったのではないでしょうか。
もちろん、市外から来た人はさらに分からないでしょうから、その方たちに対しても適切な情報を流せるような、標識か何かがあれば、もっと被害を減らせたのではないでしょうか。

震災・復興を教育する施設の必要性

(聞き手)
 震災経験の風化については、どうお考えでしょうか。

(村岡様)
 やはり、何をおいても実体験は一番良い教えになると私は思っています。ですが、実体験を知っている人は年とともに少なくなっていきます。 
 その点、神戸には「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」という震災復興や災害を教育する施設があり、とても良く出来ています。
震災の疑似体験を子どもの頃からしてもらっているそうですが、そういった施設を宮城県にも作って、小学校の頃にでも一度見学してもらうようにすれば、防災教育に役立ち、風化させずに済むのではないでしょうか。

(鈴木様)
 この間も、本校で防災訓練があった時に、話をするようにと言われたのですが、その時にふと、思い出したくない生徒もいるということを考えました。
できるだけ早く忘れたいという生徒もいる中で、生々しい事を語っていいのか疑問に思う気持ちも半分あったのです。
しかし、風化させないためには、あの時の事も思い出してもらわないといけません。
最終的には、やはり伝えていく事が非常に大きいウエイトを占めると考えるようになりました。
当時、経験した人が後輩に伝えていくという地道な事によって、防災意識を持ってもらうという事が一番大事なのではないかと思うのです。
そうするためには、その仕組みを作る必要があります。
例えば、防災避難訓練などの独自の行事を持つなど、定期的に思い返す事によって忘れずに伝わっていけるのではないかという気がします。建物の整備やモニュメントの作成も大事な事だとは思いますが、一番大切な事は、人から人へ伝えていく事なのではないでしょうか。

想像力を働かせるという備え

(鈴木様)
 私は以前、女川に2回ほど住んでいた時期がありました。
最初に赴任したのは昭和45年からの5年間で、その頃はまだチリ地震津波の記憶が生々しく、波がどこまで来た、どういうふうに逃げた、水が引いた後に湾内に自転車やら魚やらが転がっていたというような話をよく地元の方から聞いていました。
今回の津波では、そのチリ地震津波の記憶が逆に作用して、「昔はここまでしか来なかったから大丈夫」と誤認して波にのまれてしまった方の話を聞きます。
災害では想定外が起こるのだと思います。
自分の記憶を風化させずに伝えていく事は大事ですが、それが逆に作用してしまうと「これだけやっておけば大丈夫だ」と思い込んでしまう事に繋がりかねません。
実際にはそれ以上の事が起こる可能性もあるので、想像力を働かせて日頃から備えておく必要があるでしょう。
今回の津波もそうですが、まさかここまで来るとは誰も思っていなかった事が現実に起こっています。これからも何が起こるかはわからないので、最低でも命だけは助かるように、家族で揃って生きながらえるように考えていく必要があるのです。

教訓が裏目に出るリスク

(聞き手)
 佐藤先生は、後世に伝えたい教訓についてはどのようにお考えでしょうか。

(佐藤様)
 お二人のお話の通りだと思います。今回の被害が大きくなったのは、津波と原発が今までと全く違った様相を見せる原因になったのではと思っています。
地震に対して無知だったというわけではなく、先ほど鈴木先生が話されたように、地震が来るということは、ある程度の情報から考えている人もいたはずです。
「いずれ来る」と言った事自体が裏目に出てしまったのでしょう。あれだけの地震が来たら津波も来るという事は教訓として残っていますし、津波の避難訓練も沿岸部ではしているはずです。
地域ごとの事情に合わせた形態で避難訓練をしてきたはずなのですが、それが全然機能しなくなるほどの津波が来て、本当にそれは想定外と言っていいものだったのか、検証する必要があるように思っています。検証した上で不可抗力だったのであれば、それでようやく想定外と言えるのではないでしょうか。

(村岡様)
 ここ10年ほど、文部科学省の地震予知連絡会で専門家が色々と調査し、向こう30年のうちに宮城県沖地震クラスの地震が99%の確率で起きるという事は、新聞でも報道されていました。ですが地震の大きさと津波の大きさを、私たちはなかなか結びつけられません。
宮城県沖地震でも大した津波は来ませんでした。
ですが、今回は地震がより大きくなるような発生の仕方をしてしまい、地震から想定されるものよりもはるかに大きな津波が起きてしまったのでしょう。
相当な期間を費やして専門家が研究してきても、まだ難しい部分があるのだなと実感しました。

現代では人災と天災が複合する

(聞き手)
 その他で、お話しておきたいことがありましたら、お願いいたします。

(鈴木様)
 私は、災害というものは、現代社会では、人災天災が複合してくるものだと考えています。
昔の何もなかった時代には、天災だけで、とにかく逃げるしかありませんでしたが、今では原発もありますし、多賀城では精油所や工場などでも事故が起きます。
多賀城市では、今回、精油所の火災だけで収まりましたが、もし仮に石油が海に流出してしまったら、それこそ大変な事になっていたでしょう。
事実、私たちがここで一晩を過ごしていた時も、タンクの爆発音で、一晩中大きな音が響いていました。
もしこの辺りまで流れ出して火が点いてしまったら、人災として大参事になってしまいます。
石油は重要な燃料ですが、同時に燃料タンクが近くにあるというのは恐怖でもあります。
多賀城市については、工場地帯の防災を徹底してやって頂かないと、安心して住めません。そこがどうなっていくのか注目しています。

(村岡様)
 テレビを見ていた時に、市長さんが「多賀城には5千台もの被災車両がある」と言っていました。
これらをどのように処分するのかについては、市の能力を超えた作業になり、国の絶大な支援がないと出来ないと言っていた事が強く記憶に残っています。
多賀城市はそのような面ではかなり早く復旧していて、市の職員の方々が、市長さんを含め、とても頑張って頂いたのだとつくづく思いました。

(佐藤様)
 私はロッカーが倒れて来ず、またトイレの心配をせずに済んだ事が本当に良かったと思っていました。
備えあれば憂いなしと申しますとおり、物に対する備えはとても大事だと実感しましたし、それによって救われました。
また、多賀城市が危険な場所だと思われては困ります。
十分にここは大丈夫でしたし、もっと大丈夫になるまちづくりもしていますので、これからもぜひ市の皆さんに頑張ってもらって、多賀城市は安全で安心なまちである事を見せて頂きたいです。

(鈴木様)
 それから、ここにいた本校の生徒は誰も怪我をせずに、命も失われませんでした。
当たり前のことのように思うかもしれませんが、私たちにとっては本当にありがたい事です。
ニュースなどでも報道されましたが、生徒が亡くなるというのはとても辛いことです。
ですから、この学校から安全に家に帰す事が出来たのは本当に良い事でした。それに尽きます。
 これはニュースで聞いた事ですが、自衛隊の皆さんが良く頑張ってくださいました。
震災前はあまり考えた事はありませんでしたが、「多賀城に自衛隊があって、ずいぶん助けられた」と思うようになりました。

(村岡様)
 生徒の家庭で、半壊以上、つまり床上浸水以上の被害を受けたのは、育英学園高校と秀光中等教育学校を含めると450軒ほどです。
保護者が亡くなられたという家庭も3軒ほどありましたが、現役の生徒が誰も亡くならなかったので、そこだけは幸いだったと思っています。